東日本大震災【被災①】~液状化の始まり~ [東日本大震災]
今回の大震災に際し、被災された方。
また不幸にもご本人や身内・知人になくなられた方がいらっしゃる方々に対し、心から哀悼の意を表します。
今回の大震災に際し、多くの方々からご心配のメールを頂戴いたしました。
心より感謝いたします。
おかげさまで家族共に無事です。
ありがとうございました。
ここで震災当日(3/11)を振り返りたいと思います。
3/11(金)当日は平日である事から、本来なら出勤日でした。
しかし、当初予定していた3/9(水)の有給休暇が業務の都合上で休めなくなってしまったため、3/11に振り替えて自宅におりました。
「2人の子供」は学校へ。
「妻」は駅前の塾へ今後の指導方針説明があるために出かけておりました。
私は午前中に小学校で子供のイベントがあったため、学校に見学へ。
サッカーでよく知っているので、奥様方と「何で学校に?(笑)」等と談笑しながら、子供に見学を喜ばれその後帰宅。
近所のスーパーで昼食のお弁当を購入し、昼食後は楽しみにしていた寝室でレンタルしてきたブル-レイの「風の谷のナウシカ」鑑賞を・・・・・
ここで地震が起きました。
地震は怖くない私でしたが、今回は衝撃的でした。
【こ・・・・怖過ぎる!!!た・・・助けてっ!】正直な感想です。
低層階のうえに、くくり付けの棚と耐震ラッチで食器棚は問題ないし、比較的自宅は整然としているため(何度かこのPLでご紹介したように妻が綺麗好きなので、来客はみな「モデルルームみたい」と言っていきます)、押しつぶされるということはありませんでした。
写真たてが2つ倒れたのとリビングの引き出しが全部引き出されただけでした。
「自分の部屋だけがこんなに揺れたのかっ?!」
急いで廊下へ出て、中庭を見下ろすと数人が悲鳴を上げて走って逃げている姿を見ました。
「とりあえず逃げよう!」
もう帰れないかもしれない・・・と思い、スーパーロングのダウンベンチコートを着込み、帽子と手袋をして携帯電話と健康保険証、緊急避難袋をエナメルバックにねじ込んで家を飛び出しました。
マンションの道路にて目の前で液状化が始まりました。
立っている道路が上下に揺れるんです。
まるで海の桟橋にいるかのように・・・
愛する街が壊れていく様は・・・あまりにショックで受け入れ難い現実でした。
急いでマンション前の公園に向かいましたがその公園も液状化。
子供の小学校まで行くと、大きな公園には大勢の避難者。
まもなく子供達が避難してきました。
全員を親へ返還。
子供にも会えました。
駅前に出かけていた妻とは連絡取れなかったものの、約30分以上歩いてその公園まできました。
無事合流。
親御さんが交通渋滞に巻き込まれ、子供を迎えに来れないというので、数名の子供を保護。
その頃、津波警報が発令され公園の高台に数百名で避難するという状況が続き、その後雨がパラつき始めました。
【車で逃げるか?】
いや・・・車で逃げようにも渋滞と・・・。
渋滞に巻き込まれる以前の問題で、駐車場も液状化で駐車場の出口の歩道がめくれ上がり、車が出せない状態でした。
液状化で波を打ったような校庭の小学校へ逆戻りし、体育館で雨風をしのぐこととなりました。
しかし、残念ながら停電の為、日が落ちると暗闇となりました。
就学前の子供達が怖がり、懐中電灯を持っていた私の元には数名の家族が集まり、21:00前には別の地区が停電解消されたためいくつかのマンションの自治会館へ被災したマンションの住人ごとに移動することになりました。
その際、サッカーでいつも家族ぐるみで付き合っている【Aさん】のお宅に幸いにも避難させていただくことになりました。
(この時、このお家では上下水道の制限はなく電気も通ってました)
でも、はじめて小学校の体育館で知り合った「乳飲み子」と「就学前の子供」を抱える「若い奥様」は旦那さんと連絡がとれないらしく、また被災時の恐怖で震えが止まらないという状況であったため、【Aさん】も受け入れを快諾。
【Aさん】宅にはAさん(奥様)とお子さん3名、ウチの家族4名、迎えに来れない親御さんの同級生の子供2名、体育館で知り合った奥様+子供2名の12名の夜を過ごしました。
小さな子供は過敏らしく、TVや携帯で地震警報が鳴ると「またっ?また地震来るのっ?」とおびえながら嘔吐し、軽く痙攣を起こすという症状を繰り返すという不安定な状態が一晩続きました。
翌日それぞれの自宅へ帰宅。
その時
今回の震災の爪あとを目の当たりにしてしまうのでした。
(つづく)
2011-03-19 23:12
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